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第二編 東京専門学校時代前期

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第一章 明治初期の教育と大隈重信

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一 教育空白時代

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 大隈重信の一生を縦貫する二本柱は、政治と教育であること、言うまでもなく、そのうち本人は政治を表とし、教育を裏として考えていたこと明らかだが、百年たっての一般的評価ではこれが逆になって、大隈と言えば先ず早稲田大学を思い、続いてその人は著名な政治家でもあったのだと考える順序になっている。蓋し大学は年々、新しい人材を送迎して、現在、生きて動いて、大きな役割を国家社会に果しつつあるのに反し、その政治的功業は、菊の香に偲ぶまでもなく歴史が遠い昔に追いやったからである。

 それほど大隈の経歴にとっては重要な「教育」でありながら、ここに不思議なのは、彼の生涯の中に教育と殆ど絶縁した一区画があることである。而もそれが、大体、明治維新の初年から、十年の西南戦争までの間に当り、ちょうど三十歳代の、人間の士気最も旺盛な、生涯の働き盛りであったのは、ある意味において大いに惜しまれる。

 長崎の波止場にごろついていた蘭学書生の頭分が、一朝、徴を受けて中央新政府に迎えられることになった時、唇をへの字に結んだ八太郎青年の胸宇に閃現し、明滅した抱負なり、野心なりは何であったろう。言うまでもなく、幕府崩壊前後の混乱した長崎において発揮して、既に腕に覚えのある外交、財政と、それから教育のことであったに違いない。その時はまだ、そういう明確な名称では呼び難い星雲状態の混沌としたものではあったろうが、実質としてはその外にはみ出るものであった筈がない。そのうち、外交と財政は、外人や商人との交渉中、自脈をとりつつ手前勘で、時に応じ、事に処して器用にさばいただけのことだが、教育に至っては藩主の思召もあり、殊に良教師フルベッキの指導によって致遠館を設立し、遂に名声が遠く他藩にまで聞えて、笈を負うて英才が蟻集するだけの実績を挙げたのだから、最も根底がしっかりして、いささか他に誇示できる手腕だったので、その方に用いられることに、多くの期待を掛けていたかもしれぬ。

 ところが実地に来て見た維新政府の現状は、紛乱混雑、足の踏み場もない状態である。大隈はハリー・パークスとの外交折衝を皮切りに、縦横融通の才が何に向ってもきくところから、あっちに引っ張られ、こっちから呼びかけられ、寸暇もない状態だった。そして太政官内の彼に対する評価は「こりゃあ、大した掘出し物だ」ということで一致した。公卿などには全く見かけられない才能だし、これまで各藩から抜擢されてきた参与・徴士にも類がない。

 それでもこの時、もし維新政府にいささかでも教育を顧みる余裕があったら、必ず大隈はその方にも振向けられずにはいなかったであろう。衣食足って礼節を知るというか、この時の太政官は、まだまだ急場の「衣食」を追っかけ回す状態で、すぐ空腹を充すに役立たぬ教育などへの着手は先のことでよかった。この火事場騒ぎのような慌しさが、暫く大隈を教育から絶縁させたものと思える。

二 初期の教育行政

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 明治政府が行政部門の中に「文部省」を独立させたのは、実に明治四年七月十八日で、これはこの月に実現した廃藩置県に伴う行政組織の改革の一環であった。

 これを他の諸部門と比較してみると、明治維新の出発早々、職制を定め、神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の七科を置いた。その後二回の改革を経て、二年七月八日官制を改革し、科を改めて省として民部省、大蔵省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省を置いた。しかしこの中にも未だ文部省の名はなく、その如何に存在意義を重く認められていなかったかが分る。

 ただし教育を全く無視したわけではない。この日、省ではなくて、大学校(同年十二月、大学と改称)という職制を置き、教育を統轄する任務を担当させようとした。だから、今日、大学という文字ですぐに思い浮かべられるuni-versityではなくて、実体は文部省たるに近い。その前、太政官がまだ京都にある間は、土佐の藩主山内容堂が「知学事」の役名を帯びて、最上官となっていたが、残した仕事は殆ど何もない。東京奠都の後、この大学校が設立されると、越前の松平春嶽が別当(長官)に任ぜられた。どちらも幕府時代に九名侯と称せられ、夙に名君の名のあった大名だから、この人選、蓋し当を得ていたであろう。

 大学校は幕府時代の学問の総本山の昌平黌を改めたもので、学校であると同時に教育行政官庁であり、ここでは、専ら皇漢学を授け、大学と改称の後、その両翼として、もとの開成所を大学南校と改称して主として洋学を授け、医学所を大学東校として専ら医学医術を授けた。教育行政が幾らか形をなしかけて来たのはこの頃からである。

東校、南校と命名されたのは、東校が、湯島の聖堂〔昌平黌の所在地〕から、東に当る神田和泉橋付近にあり、南校が聖堂から南に当る一橋にあつた為めである。 (安倍季雄編『男爵辻新次翁』 六九頁)

しかし太政官の学問制度には初めから問題をはらんでいる。明治維新は裏を返せば王政復古で、さればこそ神祇官を諸省の最上位に据えた。これは歴史に明らかな通り、このお膳立をした岩倉具視の知嚢となって、原策を考案した玉松操をはじめ、矢野玄道、平田鉄胤など、皆極端な保守派の思想である。そこで大学には、国学を基本教育とする最高位置を与え、従来、聖堂はじめ学問所には必ず祭られていた孔子像を廃して、その代りに天祖皇神社を作り、漢学、洋学共に外藩学として、皇学よりは劣るものとしたのである。もし大隈がこの頃相談に与っていたら、洋学で教養され、爾来進歩主義を奉ずる彼は、思うに止んぬる哉と、天を仰いで浩嘆したに留まらず、強硬に反対したかもしれないが、何らかの意見を徴された痕は全くない。

 しかし漢学が久しい歴史に亘って占めた基盤は、牢固として容易に抜き難く、また青雲の志に燃える青年の洋学に寄せる興味と情熱は、断じて抑えられるものでなかった。風を望んで、全国からここに笈を降ろした学生は、千二百人の多数に上り、中でもその華として期待を掛けられたのは各藩から推薦した貢進生であった。

貢進生といふのは、明治三年、政府が小倉処平等の建議を採用して新設した制度であつて、全国の諸藩に命じ、十万石以上の大藩は三人宛(十五万石以上三人ともいふ)、五万石以上の中藩は二人宛、それ以下の小藩は一人宛の割合で推薦せしめた学術、品行共に優秀なる青少年である。 (『男爵辻新次翁』 七〇頁)

彼らは、滔々として相率いて、大学本校が、しめ縄を張り、拍手を打って祭祀する皇学に、後足で砂をかけるようにして、南校を目差して行くので、何とかこの対策を決めねばならぬ。

 幸か不幸か、これを裁くべき別当の松平春嶽は、自らパーリーの『万国史』を原書で学んだほどの洋学好きで(その師匠は岡倉天心の実兄であった)、その二人の子供は遠く長崎に送り、致遠館でフルベッキに就いて学ばせた実績がある。また岩倉は維新の基礎工事計画こそ玉松操に頼んだが、その命の次に大切な相談相手も、時勢一変と見れば弊履の如く捨てて平気な男である。玉松の中心信条の攘夷を一朝にして引っくり返して開国方策を採るに及び、「嗚呼、好物に謬まられたか!」と長大息を発して、韜晦したのだから、今やもう玉松に義理を立てねばならぬ理由は微塵もない。彼もその二児を致遠館に送っていた因縁で、フルベッキのことをよく承知していた。

 この大切な時点で、フルベッキの名が思い出されたのは、明治文化展開のためには、最大幸福であった。ただし大隈がこの間に周旋奔走したということは、諸書に明徴を見出し難く、彼がこの旧師を招くに、手を束ねていたろう筈はない、とは筆者の推測に過ぎず、確たる文献は残っておらぬ。フルベッキ自身が書いた手紙によると、帝国政府からじかの招聘で、大隈その他の人の推薦らしい口吻は一言も漏らしておらず、また別に添状も付いていない。しかし中央政府出仕のことを語った次にこう書いている。

今、私に分っている限りでは、私を呼ぶ主目的は、大学か、それに近いもの(a university or something of the kind)を建てさせる積りらしい。しかし私を徴召する目的は、細かいことは何一つ分らない。ただ私の前に教えた学生何人かが、今新政府におり、そこで私を迎えて、事を無難にさばいてくれるであろうことには、確信を持っている。

(William E. Griffis, Verbech of Japan, p. 183)

この昔の学生とは、親疎の別はあれ、副島種臣、大隈重信、江藤新平、大木喬任など、佐賀の四傑を指しているのであることは、何人もたやすく思い当らずにはおられぬ。

三 文部省と佐賀勢力

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 文部省は設置されると怱々から、佐賀(肥前)が勢力を占めて、薩長の政治的権力争いの目標にはならなかった。これは維新政府成立の時から早く、鍋島閑叟が教学のゆるがせにすべからざることを進言していた縁もあり、明治二年から明治政府の徴を受けても、暫く適職が定まらず、物足らぬ日を送っていた矢先、大学別当松平春嶽がしばしば来邸し、教育行政に関する相談を受けた。この後、閑叟としては、自然、藩出身の佐賀人を頼りにせねばならぬ。殊に致遠館で一番嘱望した大隈は、出世して実に参議の栄位へと進み、政治は岩倉、木戸、大久保それに大隈が加わって、その四本柱で支えられていると言われるほどの勢力がある。この前後、佐賀四傑の残る三人の副島種臣も参議、江藤新平は司法卿、フルベッキ自身の所属する南校を監督する文部卿は大木喬任であり、佐賀の勢力は文化に力を伸ばすことが多かった。

 文部省が設置された時、江藤が文部大輔(次官)に任ぜられ、その十日後に大木が文部卿に任ぜられた。創設時においては江藤が大いに辣腕を揮った。鋭利緻密に兼ぬるに俊敏果断の江藤は議論に長じ、この頃太政官の独裁者とも言うべき大久保を会議ごとに論破して、ぐうの音も出させず、実に大久保を窘めるために生れてきたとさえ言われた男だ。しかしその存在が僅かに半ヵ月に過ぎなかったのは惜しいとしても、たとえ短期でもこの人が豈に空しく手を束ねておろうか。その下に働いて文部大丞の地位を占めた辻新次の語っているところが、その要を尽している。

文部省の創立は、明治四年であつたが、是より先き、文部省の事業は、重に学校の監督のみで、教育の如きは、十分の注意を払はなかつた。然るに、江藤が文部省に入つてから、初めて従来の方針を一変して、学政を董督することと為つた。是れは本邦学政の一大改革にして、日本の教育史上に特筆大書せねばならぬ。而も文部省の創立に与りて最とも力があつたものは、全く江藤である。尤も江藤の文部省創定に就て、如何なる経綸があつた乎。之を具体的に説明するのは困難であるが、要するに、文部省創立の功労者たる事実は、明白である。 (的野半介編『江藤南白』上巻 五九八頁)

 大隈は郷友中、江藤と最も相得たる者、後年征韓論で分裂した時、江藤は大隈を国に連れ帰ろうとし、大隈は江藤を帰らせまいとして、最後の袂別の夜、一室に枕を並べて、鬱懐を共に吐き尽したほど親密だったので、大隈は同じ太政官内にあって、江藤によるこの新省の進水に、何らかの手を貸したかどうかが問題になる。しかし諸書の記事はみな否定的で、何ら言及するところなく、ただ一書『男爵辻新次翁』のみが、当時の文部企画の規模壮大なのを叙するに当り、「これは当時の責任者に大木文部卿、江藤文部大輔の如きがあり、かつ現大隈伯(後の侯爵)の如きも、大いに文教に力を添へられたから」である(一〇二頁)と付説している。しかし具体的事実は挙げてなく、これのみを以て、草創当時の文部省に、大隈が大いに教育上の貢献をなしたということにはならないであろう。

 江藤は、文部省官制・職務規定・権限などを制定したが、八月四日、左院議員として転出した。初代文部卿大木喬任は、就任後約一年して(明治五年八月)「学制」を発布した。これ実に今日の学制の源流をなすもので、画期的施策であったと言われる。

江戸時代から全国に普及していた学校をすべて文部省の管轄下におき、これを「学制」による大学、中学、小学の制度に編成する方針を公にしたのである。これを実施するために整然とした学区制をとったこと、この制度を小学校から始めてしだいに中学校、大学へと構築しようとしたことなど注目すべき方針を樹立したのである。明治五年の「学制」はあらゆる意味において教育制度成立に一つの時期を画したものということができる。 (『学制九十年史』 五頁)

 この大木は大隈と同藩同学の誼はあった。しかしまことに特異の性格で、別に政界遊泳術を弄せずして、巧みに遊泳し、後に薩長以外から出でて、枢密院議長の要位を占めた者は大木一人、それも薩長の力を借りず、自らその地位をかち取ったのを見ても凡物でない。大木は、自分所管の区域には厳重に境界線を画して、人の領分も侵さない代り、自分のところへ人が容喙して来るのも峻拒した。従って大木が文部省の組織に大隈の援助を借りた形跡はなく、或いはこれを機会に、教育と大隈との疎隔距離は一層大きくなったかもしれぬ。

四 米国教育の直訳的移入

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 前記の「学制」を発布する前年(明治四年)十一月、岩倉具視は、世の知る如く、幕府時代に結んだ条約の不平等不都合を改正する下検分を主務として、米欧諸国を回覧することとなった。ついでを以て各省には、理事官を随行せしめて、それぞれの制度調査を命じ、文部省は有名な田中不二麿が任に当った。滞在一年半、その間各国を巡覧の上、アメリヵの教育こそ日本が取捨.塩梅して採用するに最も適しているとして、それを研究すること、最も詳細を極めた。そしてアメリカ駐剳代理公使森有礼の推薦により、今後の日本教育の整備刷新を図るため、最高助言者としてデイヴィド・マレー(David Murray)が雇い入れられて明治六年六月来日し、日本教育初段階の組織は、この二人によって築かれたと言ってよい。

 しかるに、いざ一緒に仕事を始めてみると、田中が急進的な米化主義の主張者なのに対し、マレーは保守主義・国家主義で、殊に教育は決して外国風に機械的に真似るべきでない、という意見を持っている。当時はまた国語改良論の盛んな時であったが、マレーは一国の国語は容易に改めるべきではないと反論して、両者の意見はしばしば衝突せざるを得なかった。そこで、マレーの提出した「学監考察日本教育法」と、田中を中心とする文部省の学制改革の委員会が明治十一年五月に太政官に提出した「日本教育令」との間には、若干の差があったのは事実であるが、我が国の初等教育が段々にアメリカ式に傾斜していることは争えない。

 さしあたり、先ず第一番に必要な国語読本にしても、寺小屋時代に用いられた「往来」物その他は、新時代に不向きなので、日本には適当な先例がないから、当時アメリヵ各地に広く用いられ、福沢諭吉が輸入した『ウイルソン読本』を直訳して間に合せた一事が、万事を想像させるだろう。試みに『小学読本』第一(当時は最低を初等八級と言った。今の小学一年に当る。)と『ウイルソン第一読本』一巻の第二課の一節を並べて掲げてみよう。

See the cat! It is on the bed. It is notagood cat if it gets on the bed. Can you make the cat getoff? (p. 14)此猫を見よ。恣に臥床の上に坐せり。これよき猫にはあらず。汝は猫を追ひ退くることを得べしや。 (六の裏―七の表)

しかし丸々の直訳ではない多くの工夫をこらした跡も見える。すなわち第一課はまるで違っており、『小学読本』は、

凡そ地球上の人種は五に分れたり。亜細亜人種、欧羅巴人種、馬来人種、亜米利加人種、亜弗利加人種是なり、日本人は亜細亜人種の中なり。 (一の表―一の裏)

とあり、中の挿絵は、概ね当時の日本人の服装に書き直し、また原書でアメリヵ貨幣の載っている章には、日本の新旧貨幣を図を以て示し、「小銅銭一箇を一厘といひ、十厘を一銭といひ、百銭を一円といふ。故に、十二銭半は金二朱に当たり、二十五銭は一分に当たり、五十銭は二分に当たるなり。」(三六の裏)と換算率まで書いてあるのは、当時、明治の新貨幣が現れてから二、三年にしかならず、世間では新旧共に用いられて、大混雑を来たしていた際だから、小学校に入ると初年級で、先ずこれを心得させておく必要があったからに違いない。

 実は、このようなことまで詮索するのは、大学史本来の目的を外れるようだが、このアメリカと日本の交錯したというより、米魂和装とも言うべき教科書ないし教育方針で育成せられた少年達が、長じて「書生」と化して、東京に出て来たのを大量収容するのが、明治十年代の私立学校の任務のようになった。慶応義塾に入る者は元は士族ばかりであったのに、その頃になると、犬養毅、牛場卓蔵などの平民を先頭に、年々小学卒業生の出現とともにその数がふえ、明治十四年の政変と前後して並び起った専修学校、明治法律学校(今日の明治大学)、我が東京専門学校、その他これに続いて起った幾つかの私立専門学校も皆、彼らを収容する学級組織を持ったものである。

五 大隈の教育絶縁時期

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 ここに一つ疑問が残る。専修、明治、早稲田の専門学校が起るより数年前、まだ西南戦争の最中に出発した東京大学は、如何なる学生の収容機関となったか。今は国立という名称に代ったが、明治三十年までは唯一の官立大学であった東京大学は、無論庶民或いは一般国民に、門戸を開放したのではない。

 ここでもう一度、明治五年に発布せられた、いわゆる我が教育史上画期的な「学制」(「文部省付達第一三号」別冊)を振返ってみる必要がある。それを要約すると、

一、全国を八大学区に分ち、大学を置く。本部の置かれる府県は、東京、愛知、石川、大阪、広島、長崎、新潟、青森である。

二、一大学区を三十二中学区に分ち、各区に一中学を置く。ほぼ人口十三万人に一中学の予定で、全部で二百五十六中学区となる。

三、一中学区を二百十小学区とし、人口六百に一小学校の予定で、大体、五万三千七百六十小学区になる。

まことに壮大で、且つ整然たること三角塔を仰ぐような計画だが、これが実現できるには明治文化はあまりに幼稚で、大学は一校も建設されず、中学も東京や京都に一、二校できるにはできたが、そのカリキュラムにも教科書にも何の規制も設けられておらず、教師の資格など全く問わないので、いわゆる「いい加減な」先生が、いい加減な設備で勝手に教えたから、まことに乱雑不完全を極めた。これが漸く整うてくるには、明治二十年代まで待たねばならなかった。ただ一つ、実績を挙げたのは小学校で、発令の翌年(明治六)には、公私立合せて一万二千五百五十八校が設立され、全国の学齢児童数で、百人に二十八人強の就学者を見たのである。それが明治十一年には学校数は更に倍加し、就学者は四十一人強となった。

 政府は「学制」に対し、日本の文化程度に応じて改変を加え、実現の見込みのない大学区を全廃して、開国の急需に応ずるため外国語学校を建てたところ、英語以外の志望者は殆どないので、外国語学校は東京だけに残し、他はみな英語学校に改めた。それより前からあった大学南校は一時閉鎖して、再開の後、第一番中学と改称し、これが開成学校、東京開成学校と順次改称された後、東京医学校とともに東京大学を形成するに至る。この間、開成学校の中より一部分離独立して東京外国語学校が設立され、更にこの中より東京英語学校が分離独立した。これは、後に東京大学予備門となり、更に第一高等中学校へと変る。

 東京大学は、主として英語学校の卒業生を収容したので、彼らは全部、藩の後援のある士族で、私立の専門学校の学生とは、自ら気風の違う主因は、先ずここから発生する。しかし士族学生の数は厖大で、到底、一東京大学の教室では事足るものでない。従って、私立学校に入った士族は東京大学より遙かに多く、我が東京専門学校に席を置いた北村門太郎(透谷)、内田貢(魯庵)、木下尚江国木田哲夫(独歩)など、明治文化史上に撩乱たる光芒を放っている天才達は、多く士族出である。数の極少だった正規中学に学んだ者は、木下尚江早速整爾など暁天の星の如く稀で、後者はまた早稲田卒業生で一番早く大臣になった。

 しかしこうして明治教育史の淵源をたどり、「学制」の変革の跡を追究しても、直接に大隈が係わりを持ったという事実は、洗い出されて来ぬ。彼は明治政府において、外交と大蔵の両重要ポストを担当したから、同藩の旧友の江藤新平や大木喬任に、例えば財政的配慮をしたというような、間接的な影響力は持ったろう。しかし彼の如き天稟の教育的才能ある者が、日本の近代教育が発足するという重大時機に、殊更にそれを避けているかにさえ見え、顕著な事績を残しておらぬのは、繰り返して言うが、明治政界の一不思議である。